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生活感

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久々に写真を撮ろうと思った。
# by akira-hitahita | 2020-09-07 22:42 | スナップ・お出かけ

アビ漁

カメラ
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広島県呉市豊浜町豊島の鯛の一本釣りを習う為に親と漁に出る事が多くなったが、この冬はほとんど鯛が釣れない。
釣れたとしても小鯛が数匹、天然鯛の売価も下がり、鯛の一本釣りだけでは生活が成り立たないのが現状。
高校生の頃、漁を手伝っていた時は1kg越えの鯛が十数匹釣れていた。
海面から引き上げる時の天然鯛の、あの桜色が綺麗だった事は覚えている。
何故?鯛がここまで釣れなくなったのか?鯛の一本釣りは昔行われていたアビ漁の流れを受け継いでいるのでアビ漁について調べてみた。

・アビ漁とは元禄時代から続く伝統漁法。
・アビは広島県の県鳥で、1989年広島市で行われた海と島の博覧会のマスコットキャラクターはアビ丸だった。
・アビは冬になるとアラスカやシベリアから飛来し翌年の3~4月に帰っていく。
・アビ科5種類のうち瀬戸内海に来るのはアビ・オオハム・シロエリオオハムでアビ漁に関わる鳥はシロエリオオハム(少数のオオハムが混じっているらしい)

・昭和4年に出版された「怒り網代」によると、豊島の海を訪れるアビという鳥は飛ぶことなく遠くから海上を浮いたままでやってくる。
 想像をかきたてて神秘的で神の使いとまであがめられた鳥にふさわしい姿である。
 その頃の海面には数百数千、多い時は数万羽いたと書いてある。

漁中に飛んでいるアビに似た鳥を見かけ、親に『あの鳥はアビ?』と尋ねると『アビは飛ばない』と?
飛来してくるのだから飛ぶでしょうと、いつも思っている。

・かっては東は忠海から西は愛媛県怒和島、津和地島、山口県周防大島までアビ漁は行われていた。
・アビ漁では手漕ぎの船を使った。
 数十隻の伝馬船で怒り網代まで漕いでいき(後はエンジン付きの船で行き、伝馬船に乗り換えた)明け方からアビが群れるのを待つ。
・アビはイカナゴの集団の下側を体を反転させながら通り抜けたりぐるぐる回ったりしてイカナゴをおどす。
 アビは群れだけでなく上手なものは3羽くらいでイカナゴの集団をしめていく。
 アビにしめられるイカナゴは逃げようと、次第に中央に密集し4~5m巾もあった群れもついには1mほどの渦になり、水面10cmも盛上るほどのコーヒー色に染まった塊となる。
 時にはその塊の上をイカナゴを求めて海底から上がってきた鯛が飛ぶ事があり、また塊の上に大鯛が乗っかっていることもある(西道喜代弘・北尾松作談)
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・イカナゴの群れがある程度固まりかけた頃、ポンデン竿というアビの色に似せた黒と白の布をつけた竿で群れの下をかき回すことがある。
 イカナゴはアビと間違えて水面上へ逃げ固まってしまう。
・周りで見ていた漁師が「浮た」「見た」と大声で言い第一声を発した者が先取権をもち、アビの群れの中に船を入れる。
 当然アビは散るもののイカナゴの塊は恐怖で動きが止まる。
 漁師は松の枝で作ったタマですくい、多い時は1~2斗のイカナゴが取れた。

・アビが姿を見せたからといって、すぐに漁をはじめる事はしない。
 毎日のように伝馬船を漕いでアビの中に入って鳥をならす。
 「イカリ鳥は、わしらを信じてこの海に来る」
・漁師は大きい物音をたてぬよう、高い帆を立てぬよう、派手な色の服を着てアビを恐がらせないよう気を使った。
 「アビは、わしらの顔を覚えとる」漁師が翌日、違う服を着ただけで首をかしげる。
・アビ漁時、船の描く円の中には数百のアビが波間に浮き、潜り、船べりに来て、クウクウと小さな声をたてながらイカナゴ追いに夢中だ。
 手を伸ばせば、その背をなぞられるほどで野生の鳥とは思えない。
・漁師達は漁の間、けっして大声は出さず小声で今日の漁の出来をささやきあう。
 アビを驚かないよう気を使い慈しみアビも安心して手の届くところを泳ぎ、恐れることがない。

漁場に出ると親はまるで手話で話すかのように近くの船同士で会話をしている。
アビ漁に行った事がない親だが、アビに配慮した会話方法を受け継いでいるのだろうか?

・釣り針にアビがかかると針を外し放してやる。
 それでも死に至ることがあれば室原神社の横にある竹やぶのかげの高さ20cmほどのお墓に埋葬する「アビは漁師の神様なのです」

現在のお墓、枯葉に覆われているが現存している。
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・「雀」「馬乗」「二窓」「尾久比」「斎」「白石」「鍋島」の7つのお社がある。
・豊島海域には「二窓」「雀」「斎」「馬乗」の四か所の怒り網代が「アビ渡来群游海面」として昭和6年2月に国指定天然記念物になった。
・雀の可愛いいミニ鳥居のお社は昔は木で作られていた。
 台風が来れば流されてしまうので昭和55年に漁師たちはコンクリートで再建したが神社から怒られた。
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・雀の名前の由来は「今は無うなったけど、昔はこの岩の上に大きな松の木があったんよ。
 その頃、豊島は芋と麦ばかり作っとった。
 群がる雀を追い払うと、ここの松の木に鈴なりに止まったけんね」それから、この岩のまわりは雀磯の名がついた。
・馬乗のお社は大崎下島南端の海岸にあり堤防に作られている。
 昔は馬を放牧していたところから、つけられた地名である。

・上道具はナイロン糸(12号)を70m~100m用い、その下にサルカン(より戻し)を入れる。
 サルカンの5~10cm上にビシ(鉛)を合計53ケ入れる。
 ビシの合計重量は150~170g程度。
 下道具はナイロン系22mを幹糸する。
 下端は380g程度の鉛を結着する。
 幹糸には6本のナイロン枝糸をつけ、一番下のみ6mの長さ、他は2mとする。
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・アラスカやシベリアでは20世紀になって自然破壊により激減している。
・以前は何千羽と来たアビもどんどん減り一本釣りのアビ漁だけでは生活できなくなってきた。
 今年(1989年)は400羽しかこなかったので去年同様、アビ漁は出来なかった。
・アビが減少したのは広島県の海域に問題がある。
 現に北九州の海域には4月下旬に千羽のアビが確認されている。

近年では新聞報道で4~5羽のアビの確認がされているのみ。

・貝殻が細かくなった砂(海砂)、海底の海砂に夏、イカナゴが休息し産卵する。
 関西空港建設用に海砂が大量に採取されイカナゴが激減した。
・昭和42年ぐらいまではイカナゴをすくったら200貫くらいはおった。
 今はこのくらいも浮かんよ。
 関西国際空港に砂売るまでは斎島でも二窓でもアビは来たら一日そこにおった。
 餌があったからね。
 兵庫県の漁協が砂を売らんのに広島県の尾道水道、幸崎水道の砂を関西空港まで運ばにゃならんのか言うのがうちの訴えじゃけど、
 尾道水道はよその海なんよね、管轄外じゃけん何も言えん。
 漁業者の少ないところは関係ないから売るからね(西藤吉正談)
・島に長い海岸道路が作られたこともアビを恐がらせる結果となった。
 臆病なアビは工事の音にたいへん敏感ですぐに逃げてしまう。
 漁師たちはアビがいる間はどんな工事も中止するよう働きかけた。
 「誰の世話にもならんでアビはうちらで守ってきた」豊島の漁師は誇り高くアビ漁を守るために愛情をかたむけて闘ってきた。
・いろんな面でも訴えてきたし、広島⇔大坂のグリーンフェリーの航路変更もした。
 スピードは速いし波も立ちアビがおびえる。
 漁協を通して訴えを出し2週間回答無し。
 北尾紋一を連れてのりこみ理由を説明したら、あくる日には斎島の南に航路を変更してくれた(西藤吉正談)

・斎島から尾久比島、豊島、大崎下島にかけての海面は今はマダイ保護育成区域になっていて、毎年稚魚を中間育成し放流している。
 ここでは網漁が禁止されている。
・馬乗と二窓の漁場は昭和42年、雀の漁場は昭和50年に閉じられた(西藤吉正談)

・豊島のアビ漁の歌がある。
 「アビと漁師」坂田寛夫作詞、中田喜直作曲、昭和43年に作られた。
 この曲があまり世間に知られぬままに過ぎたのは気軽に口ずさむものではなかったからだろう。
 だが、この歌を耳にして強く魅了された高校生がいた。
 「豊島は絵のような世界だ」大学生になった佐伯智則さんは憧れのアビを一目見たいと「アビと漁師」のカセットを持って豊島を訪れた。
 これが契機となって彼の所属する東京大学コーラス部「柏葉会」と豊島との交流が始まったのである。
 「ぜひ歌いついでいきたい」そんな豊島の人達の熱意が、やがて町民参加による音楽祭開催へと発展していく。
 一大イベントは1989年3月に行われた。
 音楽祭「ふれあいコンサート」は広島交響楽団の演奏、次に広島大学コーラス部の合唱、続いて地元小学校の鼓笛隊、漁師の大漁節、町内出身者だけでも194人参加になる
 ビックイベントで最後は柏葉会の合唱でしめくくった。
 大成功を収めたコンサートはほぼ毎年行われた。
 1994年3月に豊島で開かれたふれあいコンサートでは柏葉会メンバーは、これまでで最大の36人が参加し十数軒の家にホームステイ、新鮮な海の幸を堪能し大学生はますます
 豊島を好きになって帰っていった。
 大漁唄(混声合唱組曲「アビと漁師」より)

豊島に描かれたアビたち。
通称でんでんむし(むろきはら橋)
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元フェリー乗り場。
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豊浜まちづくりセンター1Fには『あび資料展示室』があり道具の展示から写真、資料等が保管されています。

『アビ鳥と人の文化誌』著者:百瀬淳子より
また、著者は瀬戸内海について、『瀬戸内海は見事なほど緑色に染まっていた。
白い絵具を溶かしこんだような緑色は何層かの帯になって海面を彩り、遠ざかるにつれて色を薄くしていく』と表現されています。

# by akira-hitahita | 2020-02-22 20:20 | とびしま

大竹手すき和紙ボランティア

カメラ
12/7(土)
今年3月に新聞記事で大竹手すき和紙ボランティアがあると知り、その時はタイミングがあわず。
先日行った千町原の茅刈りボランティア時、参加者から大竹手すき和紙ボランティアは始まっていると聞き参加することに。
まずはコウゾ(和紙の原料)を3時間ほど蒸した後に水をかけることでが皮離れを良くします。
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コウゾの皮はぎ風景。
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コウゾの皮を少し捻ると簡単に皮が外れ、丸まらないように注意しながら木と皮を分離していきます。
分離した皮は、すぐ次工程にいかない場合は乾燥させないように水に付けておきます。
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休憩を挟みながら10時から15時まで、なかなか根気のいる作業です。

12/21(土)
今日はコウゾの皮はぎを1時間ほど行った後に、次工程のそぶり作業を行いました。
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そぶり作業とは皮の表面にある節等の黒くなっている繊維にならない部分をそぶり包丁で削ぎ落す作業。
根気のいる作業ですが、丁寧に作業をする事で品質の高い綺麗な和紙が出来るそうです。
100年前に作った和紙と、ここで作った和紙を電子顕微鏡で比べても構造が変わらなかったと。
大竹には和紙作りを生業にしていた家が昔1000軒あったそうですが当時の作り方を忠実に再現している証拠ですね。
そぶり作業の風景。
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コウゾの栽培から12もの工程をへて、ようやく完成する和紙。
400年前の伝統を絶やさないよう頑張っているおおたけ手すき和紙の里、定期的に通ってみようと思います。
綺麗な和紙が出来るようになると面白いでしょうね。
# by akira-hitahita | 2019-12-26 20:15 | ボランティア

八幡高原(千町原)の茅刈りボランティア

カメラ
11/23(土)
NPO法人 西中国山地自然史研究会が主催する雲月山の山焼きボランティアに続き、千町原の茅刈りボランティアに参加してきました。
参加者は30名弱、参加費は500円。
茅は茅葺屋根に使用される草本。
刈り取った茅を芸北中学校が開く茅金市場で出荷する事により、地域資源の有効活用・伝統文化の継承・ススキ原の保全活動・せどやま券(芸北の地域通貨)による地域の活性化を目的に行われています。

まずはボランティア前にせっかく八幡高原に来たのだから臥龍山の8合目にある雪霊水を汲み取りに。
この日の八幡高原の最低気温は1℃、さすがに寒い。
9:30にボランティア開始すると着込みすぎたのか?風が無い為か?すぐに暑くなります。
まず、なるべく180cm以上の長さの茅を鎌で根本より刈り取ります。
枯れた茅は思ったよりも固く、鎌を真っすぐに入れるよりも斜め上に、イメージとしては茅をそぐ感じで刈らないとなかなか切れません。
切った茅を直径20cmの束にするのですが、底面を揃えたり茅を真っすぐにしたりと綺麗に束ねるのは、なかなか難しい作業です。
この一束が約1200円、想像以上に高値です。
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昼になり高原の自然館となりの山麓庵(茅葺屋根の建物)で地元の方が作られた豚汁・大根の煮つけ・おにぎりをお腹いっぱいいただきました。
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地元の人と芸北について話ていると、この一帯に大規模な風力発電が出来るそうです。
真っ白な塔に巨大な風車が立つ風景は雄大ですが、低周波の影響か?動物がいなくなったり、レジャー施設に人が来なくなっている地域があるそうです。
休憩後、13:00~作業開始、最後は束ねた茅を立て2週間、乾燥させ茅金市場に出荷します。
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なかなか体験できない作業、物作り大国から欧米に習いITやAIで急激に変化している日本、もう少し環境や伝統文化に目を向ける事も必要だと思います。

以前の芸北では民家は茅葺屋根で各集落には茅畑と呼ばれるススキ原があったそうです。
屋根が瓦になりススキ原の手入れが行われず木が生い茂り、集落にイノシシが出るようになったと。

# by akira-hitahita | 2019-12-04 07:30 | ボランティア

台風19号災害ボランティア#2(長野県長野市)

カメラ
11/1(金)
広島市を22時に出発。

11/2(土)
広島県→岡山県→兵庫県→大阪府→京都府→滋賀県→岐阜県→愛知県を走行し長野市に16時に到着、前回同様18時間かかった。
単純計算では10時間で到着する予定だけど睡眠時間+集中力がなくなるとサービスエリアのたびに停車しダラダラしている。
車での楽しみは高速道路から見える中部地方の景色。
長野県に入ると3000m級の南アルプスの頂上には雪が積もっていて綺麗です。
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長野県の景色は平地からいきなり3000級の山がそびえ立つように見え雄大、他県にない景色が沢山ありそうな予感。
長野道の姨捨サービスエリアの高台から見える善光寺平(長野盆地)も絶景です。
広島への帰り道、姨捨サービスエリア付近からチラッと見えた善光寺平の夜景が綺麗で撮影すればよかったと後悔。
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でも、この景色の中には千曲川が決壊し被災した家屋が沢山含まれていると思うと複雑な心境です。
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今回は熊本地震の時に一緒に活動していた熊本のN君が宮崎のKさん・山口のAさん、Hさんの4名で今日から現地入り、合流する為に長野運動公園東駐車場に。
とびいりの埼玉のK君と一緒に一番近くの鮮魚自慢の居酒屋魚菜やへ。
魚菜やでボランティアの話しをしていると店長が『知り合いも被災したんですよ』と言いながらサービスしてくれました。
天然なめこのみそ汁が特においしかったし心も体も温まりました、ほんと感謝です。
多くのリンゴ農家が被災したこともあり、どこで地元のリンゴを買う事が出来るのか解らず『リンゴを買って帰りたい』と相談すると12月の一番おいしい季節に送ってくれると。
気さくな社長・店長・りんご関係のお偉いさん?の方と一緒に記念写真前の一コマ。
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11/3(日)
長野運動公園東駐車場からバスに乗り長野市北部災害ボランティアセンター(長野市北部ボラセン)に到着、受付後に各サテライトにバス移動。
大町サテライトに到着し、どこのお宅で作業するのか振り分け(マッチング)が行われます。
今日、作業したお宅は床上浸水しています。
依頼内容は壁材の取り外しと撤去。
浸水した壁材を取り外す為に床より高さ約60cmのラインをノコギリで切断、壁材・保温材・釘を取り外します。
こんな取り外し方でほんとにいいの?と思いながらの作業でしたが奥さんが大工さんと電話でやり取りしながの指示なので大丈夫なんでしょうね。
ちゃんと復旧しているのか機会あれば訪ねてみたいです。
家の中の状況(許可を得て撮影しています)
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このご家族は被災したとは思えないぐらいの明るさ『家に穴を開けるなんて普段の生活では出来ない』と言いながら楽しんでいるようにも見えます。
休憩時間には沢山のお菓子、心遣いが嬉しかった。

昼休憩中に軽トラのボランティアさんが、すぐ近くだからと千曲川の決壊場所に連れて行ってくれました。
始めて決壊場所へ行きましたが、僕が見た今までの被災状況とは全く違い気が重くなり、ものすごい数のボランティアが入っていました。
災害現場に入るたびにここは日本か?という錯覚におちいります。

作業終了時にご家族から一緒に写真をと。
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今日、帰るメンバーは『どうしても決壊場所が見たい』と。
一旦、長野運動公園東駐車場に帰りると長野市民からボランティアさんへと。
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黄色がシナノゴールド、赤色がシナノスイート、サテライトでもリンゴを頂きましたが、どこで食べてもクオリティの高いおいしいリンゴばかりです。

各自の車で千曲川決壊場所へ。
ここからの写真は許可を取っていません、ボランティアセンターは写真NGとしていますが、広島では被災地の現状を知る機会が無いので投稿します。
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ブルーシートの場所が決壊した堤防、遠くから見てもかなりの高さの堤防です。
この堤防が決壊した事を想像するだけで相当、怖い。
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決壊した堤防の対面、この何もない一帯は住宅街だったのか?
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いったい、どれだけの人が亡くなったのか?という気がしますが、この地区では一人も亡くなってないのです。
誰が誰を非難させるのか細かい取り決めがあり前日には避難していたと。
防災に対する意識が高く、コミュニティがしつかりしているのでしょうね。

ボランティア参加者は無料のまきばの湯でお風呂をいただき、メンバーとのお別れ。
その日の夜から熊本地震の時に一緒に活動していた天草のSさんが合流し、山口のSさんとファミレスへ。

11/4(月)
長野市北部ボラセンに到着、受付後に天草のSさんが長野のTV局からインタビューを受け、今日の活動現場まで来る事に。
バス乗車前にグループ分け(1グループ5名)が行われリーダーを決めます。
後ろにいた松本市?の家族3名とグループを組み、このメンバーで初回参加の天草のSさんにリーダーをお願いするのも酷なので自分がする事に。
バスの中でお母さんと話をしていると災害ボランティア以上に子供のケアについて興味があると。
今日は千曲川決壊場所のある津野サテライト。
3グループでチームを組んで15名での活動となり作業内容は依頼宅隣のリンゴ畑の漂着物の撤去。
ご主人から依頼されたのは鉄骨で作られたリンゴ箱置き場?の小屋の片づけですが地面にはバラバラになったリンゴ箱からは釘、しかも鉄骨は曲がり倒壊の危険もある中に15名が入り作業するのは危険と判断し、この作業はお断りしました。
2~3名で作業すれば倒壊しかけても逃げる事が出来るので作業可能と思えますが、広大なリンゴ畑の中には家屋から流れ出た畳、公民館から?流れてきた太鼓、ありとあらゆる物が多量にあり、そちらを優先する事に。
鉄骨から木材、いろんな物がリンゴの木に絡みつき、早く息苦しさから解放してあげたい気持ちになります。
もしここにリンゴ畑がなく、これだけの漂流物が民家に流れていた場合は被害は拡大していた可能性があります。
被災したリンゴ畑(ご主人に許可を得て撮影しています)
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休憩時間に他グループのリーダーが紹介してくれたメンバーの中には生まれた時から耳の聞こえない補聴器を付けた長野の青年もいます。
会社にも難聴の子がいてNHKの番組『ろうを生きる難聴を生きる』を見ていますが健聴者とのコミュニケーションに皆さん苦労をしているようです。
そんな中、一人で健聴者の中に入り、ボランティアを続けている彼は勇気があり立派だと思います。
彼と話す時はマスクを外し口の動きを読み取り(口話)が出来るようにしますが、人数が多くなるとついていけず、少し寂しそうでした。
その時、軽度の発達障害のある青年が手話で彼と楽しそうに話し始めました。
彼がまさか手話が出来るとは、お母さんの教育がいいんでしょうね。

作業も始まりリンゴの木に絡まった漂着物を一人で取り外していると難聴の彼はすぐに助っ人に入ってくれます。
ほんと回りをよく見て気配りも出来る、いい子です。
難聴の彼には写真を撮る約束もしていたのに終了間際のドタバタで写真も取れず。
名前を聞いたのに忘れてしまいました。
ボランティアに障害のある方・健常者は関係無い。
どんどん参加してもらえれば障害のある方への理解も進むと思います。
彼らとは、また一緒に作業がしたいですね。

他グループのリーダーと釘の踏み抜きや手の切創で怪我人が出なければと話ていましたが一人も怪我人はでず一安心。
リンゴ畑の面積が解らないので推測ですが、リンゴ畑の中の漂着物の撤去は1割も終わってないと思います。

津野サテライトに帰り活動報告を終えグループの元へ帰ると小型のカメラを持った人が話かけてきたので、いろいろと質問に答えました。
グループの皆さんを余り待たせる訳にもいかず『そろそろ帰ります』と言ってカメラの側面を見ると『TBS』と。
TBSの『あさチャン』まさか全国版のTVカメラマンだったとは放送には使われたのかな?
今日のメンバーさん。
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作業終了後は天草のSさんとまきばの湯でお風呂をいただき、温泉水で作った釜揚げうどんを食べながらTVを見ていると、そこには天草のSさんが名前入りで登場、いつもより少しまじめで笑えます。
まきばの湯には沢山の長いもや新鮮な野菜・きのこ・リンゴが売られていて露天風呂からはアルプスも展望出来ます。
お礼をこめて、お米とお菓子を買って帰りました。
天草のSさんと別れ、帰路へ。
移動時間14時間30分と大幅に短縮できまいたが広島に着いて寝たので、あまり意味はなかった。

# by akira-hitahita | 2019-11-16 12:22 | ボランティア